視力にこだわる文化が、わたしたちを迷子にする「視力」至上主義の呪い
- ジョイビジョン奈良.OptMatsumoto(1級.眼鏡作製技能士)

- 10月14日
- 読了時間: 2分

1. 「視力」至上主義の呪い
かつてから学校健診や免許更新などで測られる“視力”は、「見えるか、見えないか」を二分する絶対評価として扱われてきました。
でも、その「視力」って、どれだけ現実の“見え方”を捉えきれているのか?
0.7以上ある=安心?
1.5見える=問題なし?
そんな単純なものなのか?
実際には、「視力」はごく一部の機能にすぎません。
けれど、この単純指標が子どもたちだけでなく、大人たちすらも思考停止に追い込む呪いになってしまっているのが現実です。これが「視力」至上主義の呪いです。
2. 見え方が原因と気づかない“不調”たち
子どもが授業に集中できない
働き盛りの大人がすぐに疲れる
高齢者が本を読むと頭が目が痛くなる・重くなる
こういった悩みに、「目が悪い」という自覚がある人は案外少ない。
なぜなら“視力”検査で「見えている」とされてしまっているからです。
でも、本当は
両眼視機能に課題がある
眼球運動機能に課題がある
視空間の処理が弱い
といった“目と脳の協調ミス”が、不調の正体だったりします。
3. “数値”で管理された安心の落とし穴
視力0.3だった子が、0.9の眼鏡をかけたとします。
保護者も学校も「良くなったね」と安心します。
でも本人は「しんどくなった」と言い出せない・・・
「数値は上がったのに、どうして?」
「新しくメガネを作ったのに、どうして?」
それは、「視力」が上がっただけで、「見やすくなった」とは限らないから。
ここで大事なのは、「見える」と「わかる・伝わる・使える」の違い。
“視力だけでは幸福になれない”という当たり前の事実を、社会がまだ受け止めきれていないからです。
4. 誰もが“見え方の迷子”になる社会
この呪いは、子どもたちだけの問題ではありません。
むしろ、大人たちこそが「視力で管理する文化」を盲信し、広めてしまっています。
メガネをかけても疲れる理由がわからない
老眼で遠近両用をかけたけど、なんだかしっくりこない
視野の狭さや奥行き感のズレに気づかないまま過ごしている
視力に縛られた私たちは、いつの間にか“見え方の迷子”になっているのです。
5. 「視る」を取り戻すために
本当に必要なのは、「視力を上げること」じゃない。
「自分の見え方を、自分の感覚で取り戻すこと」。
見るってなんだろう?
わかるってどういうこと?
その違和感は、どこから来てる?
その問いに向き合うことが、“迷子”から抜け出す第一歩。
視力至上主義という呪いをほどき、「見える」にまつわる物語をもっと豊かに、もっと自由に取り戻していこう。


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