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ジョイビジョン奈良・Opt Matsumotoは、両眼視機能評価・視覚認知評価・感覚統合・心理学の知見をもとに、“本当に必要な眼鏡”を提 案する専門店です。

- ジョイビジョン奈良・Optmatsumoto - joyvision-nara
▪️マーシャル・B・ケッチャム大学 TOCエグゼクティブ認定プログラム修了
▪️米国ケッチャム大学/TOC上級通信講座 修了
▪️国家検定資格.1級.眼鏡作製技能士
▪️作業療法士(発達領域)による評価も可能です
奈良県 橿原市 常盤町495-1
営業時間9:30~19:00
水曜定休/石垣島出張の場合、連休
★年末年始休業期間12/27〜1/2迄
TEL 0744-35-4776(完全予約制)
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見え方の困り感を都合よく利用する風潮—“見え方の構造”を正しく扱うために
「見え方の困り感」が商品化していく時代に
最近、「両眼視」「プリズム」「ビジョントレーニング」という言葉を耳にする機会が増えています。
“見え方の困り感”に関心を持つ人が増えていることは、社会にとって確かな前進だと思います。
けれど、その広がりの中には少し奇妙な現象もあります。
「光の波動が整う」「エネルギーが上がる」といった、感覚的スピリチュアルと視覚科学が混線した世界観が生まれているのです。
もちろん、感覚を大切にすること自体は悪いことではありません。
しかし、“気持ちいい”“なんか合う”という直感を、検証を通らない信念や商材にすり替えてしまうことが問題です。

ジョイビジョン奈良.OptMatsumoto(1級.眼鏡作製技能士)
11月21日読了時間: 4分


視覚をめぐる選択肢が、人生の質を変える時代へ
「視ること」は文化である
眼鏡を通して視力を補う──
それはもはや当たり前になっているけども、その行為の奥にある「視ることの意味」まで掘り下げている人は、ほとんどいない。
「どう見えるか?」の先には、「どう感じるか?」「どう伝わるか?」があります。
これはもはや視覚の生理的機能ではなく、“文化的機能”の領域です。
たとえば、
見えにくい子どもに対して「ちゃんと見てない」と叱る先生
まぶしさで目が開けられないのに「やる気がない」と解釈される職場
色や形の感受性が豊かなのに「発達障害」とラベリングされる子ども
──全部、「視ること」が“機能”としてしか扱われていないから起きる誤解です。

ジョイビジョン奈良.OptMatsumoto(1級.眼鏡作製技能士)
10月17日読了時間: 2分


「見える」は、「わかる」「伝わる」に繋がっている──視覚をコミュニケーションの構造として再定義する
■「見えにくい」だけで、誤解される世界
見えるはわかる伝わるに繋がっている視覚をコミュニケーションの構造として再定義する
「話が通じない」「空気が読めない」「理解していない」。
こういった評価が、視覚的な“見え方のズレ”から生まれていることは、意外と知られていません。
例えば黒板の文字が見えづらい、視界の中心がぼやけている、動きのあるものが追えない──
そういった小さな「視覚のノイズ」が、「理解が遅い」「注意力がない」といった評価へとすり替わる。
ここにあるのは、視覚機能の誤読ではなく、視覚の“意味機能”の軽視です。
■「見ること」は、情報の受け取りであり、心のやりとり
人が「話を聞いている」時、多くの場合、視線は相手の目元や表情に向いています。
子どもが「わかった」と感じる瞬間にも、視覚的な情報が大きく関わっています。
つまり、「見る」という行為は、単なる視力の問題ではなく、感情・理解・共感・伝達といったコミュニケーションの土台を支える、根本的な構造なのです。

ジョイビジョン奈良.OptMatsumoto(1級.眼鏡作製技能士)
10月17日読了時間: 2分


視覚を「機能」ではなく「意味」で捉え直す。
■ 見える/見えないの“その先”にあるもの 視覚を「機能」ではなく「意味」で捉え直す。視覚を「機能」ではなく「意味」で捉え直す。 視覚を「機能」ではなく「意味」で捉え直す。 「視力」は、あくまで“静止した点を見る能力”にすぎません。 けれど、実際の暮らしや仕事、学びの中で必要なのは、もっと多様で動的で連続的な「視覚の使い方」や「視覚の意味」です。 たとえば、「文字が見える」ことと「意味が入ってくる」ことは全く別物です。 「前が見える」ことと「前に進みたくなる」ことも、まったく違う脳の動きです。 視覚はただの“入力”ではありません。 人の中で、“解釈されて、意味になって、行動に繋がる”ところまでが視覚です。 ■ 「意味まで視る眼鏡屋」ができること ジョイビジョン奈良.OptMatsumotoがやっていることは、「度数を合わせる」「斜位や斜視を補正している」だけではありません。 「その人が、何を“見たい”と思ってるか」にも寄り添うこと。 視覚的な困りごと に加えて、 感覚の過敏さや気づきにくさ 、 心の状態や環境との関係性 これらを含めて、まるごと立

ジョイビジョン奈良.OptMatsumoto(1級.眼鏡作製技能士)
10月16日読了時間: 2分


視力にこだわる文化が、わたしたちを迷子にする「視力」至上主義の呪い
視力にこだわる文化が、わたしたちを迷子にする。

ジョイビジョン奈良.OptMatsumoto(1級.眼鏡作製技能士)
10月14日読了時間: 2分


視ることの再定義:ジョイビジョン奈良の挑戦
【はじめに】 視ることの再定義 「眼鏡屋のくせに、心理の話をするなんておかしい」 ──そう思われても仕方がないかもしれません。 でも、私は“視る”という行為そのものが、感覚・感情・意味づけと結びついた“行為”であることを、日々の現場で痛いほど実感しています。 この記事では、そんな常識を覆す“視ることの再定義”についてお話します。 「見えているのに、困っている」という現実から 視ることの再定義 私たちは「視力が出ているなら問題ない」と思いがちです。 けれど実際には、視力に異常がなくても、困っている人がたくさんいます。 たとえば—— 黒板の字は見えるのに、授業に集中できない子 視力検査は問題ないのに、読書が苦手で頭が痛くなる人 一見ふつうに生活できていても、人混みやまぶしさに耐えられない人 こうした困りごとは、 視力ではなく「見え方」の問題 です。 もっと言えば、「どう見えて、どう受け取り、どう意味づけるか」という、 視覚をめぐる全体の体験の問題 だと私は考えています。 視力ではなく、「意味まで見届ける」視る力へ 目に映る情報を正しく処理し、必要なも

ジョイビジョン奈良.OptMatsumoto(1級.眼鏡作製技能士)
10月14日読了時間: 2分
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