視ることの再定義:ジョイビジョン奈良の挑戦
- ジョイビジョン奈良.OptMatsumoto(1級.眼鏡作製技能士)

- 10月14日
- 読了時間: 2分

【はじめに】
視ることの再定義
「眼鏡屋のくせに、心理の話をするなんておかしい」
──そう思われても仕方がないかもしれません。
でも、私は“視る”という行為そのものが、感覚・感情・意味づけと結びついた“行為”であることを、日々の現場で痛いほど実感しています。
この記事では、そんな常識を覆す“視ることの再定義”についてお話します。
「見えているのに、困っている」という現実から
視ることの再定義
私たちは「視力が出ているなら問題ない」と思いがちです。
けれど実際には、視力に異常がなくても、困っている人がたくさんいます。
たとえば——
黒板の字は見えるのに、授業に集中できない子
視力検査は問題ないのに、読書が苦手で頭が痛くなる人
一見ふつうに生活できていても、人混みやまぶしさに耐えられない人
こうした困りごとは、視力ではなく「見え方」の問題です。
もっと言えば、「どう見えて、どう受け取り、どう意味づけるか」という、視覚をめぐる全体の体験の問題だと私は考えています。
視力ではなく、「意味まで見届ける」視る力へ
目に映る情報を正しく処理し、必要なものを選び取り、それを自分の中で整理して、次の行動につなげる——
この一連のプロセスこそが「視る力」の本質です。
これは、単に目が良いとか、視力が出ているという話ではありません。
もっと奥にある「見え方の文化」「感覚のスタイル」「こころの構造」の話です。
ジョイビジョン奈良.OptMatsumotoは、視力だけで判断するステレオタイプな評価から、「意味まで見届ける眼鏡屋」として、まったく別の文化を提案しています。
眼鏡は「矯正器具」ではなく、「世界の受け取り方を変える道具」
見え方を整えることは、ただ視力を矯正することでも、見やすさを調整することでもありません。
「その人がどんな世界を見ているのか」「どう受け取っているのか」に寄り添い、そこから生きやすさを立ち上げていく作業なのです。
だからこそ私たちは、視覚・感覚・心理の専門性を交差させながら、一人ひとりにとっての「見え方の意味」を共に探っていきます。
このあと、両眼視 × 感覚 × 心理という3つの視点から、
どう見え方がつくられていくのかを、具体的にお話ししていきます。




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