読み書き苦手=視機能? その安直な方程式の裏で起きていること
- ジョイビジョン奈良.OptMatsumoto(1級.眼鏡作製技能士)

- 10月19日
- 読了時間: 5分
「学校の先生に紹介されて…よくわからないんですけど、視機能の検査をお願いできるって聞いて…」
来店時に、そう話される保護者の方がとても多いです。
紹介状もなく、紹介理由も不明瞭。
「読み書きが苦手みたいで」「板書が遅いと言われて」と説明されますが、保護者自身がなぜ“視機能”にたどり着いたのかを理解していないことがほとんどです。
話を伺うと、学校や放課後等デイサービスの先生に
「一度、視機能を見てもらってください」と言われた——
それだけのケースが圧倒的に多いのが現状です。
その背景には、
「ここで何か原因が見つかってくれれば」という願いと、
「もう、こちらでは手に負えません」という限界のサインが同居しています。
視機能の専門家として、私はその気持ちを丁寧に受け止めたいと思います。
しかし、こうしたリファー(紹介)の中には、構造的な歪みが潜んでいると感じます。
■ 観察や根拠が共有されていないリファーが生まれる背景
支援の流れの中で、「観察や根拠が共有されていないリファー」が起こる理由は単純ではありません。
そこには、
思い通りにいかないケースを「別の誰か」に委ねる文化
「読み書き苦手=視機能」と短絡的に結びつける思考ルート
の二つの傾向があります。
どちらにも共通しているのは、構造を見ようとする前に、ラベルで処理してしまうということです。
■ 思考停止が生む“安直ルート”
「読み書きが苦手」という言葉を聞くと、
脳内で反射的に“視機能”という単語が立ち上がる人は少なくありません。
しかし実際には、読み書きの困難さの背景には、
感覚処理の偏り
注意の切り替え
ワーキングメモリの容量
視覚情報処理の速度
自己効力感の低下
など、いくつもの層が関わっています。
視機能はその中の一要素に過ぎません。
それでも、「わからない」を抱える余裕がない現場では、
単純な答えに飛びついてしまう傾向があります。
これが、“読み書き=視機能”という安直なルートの正体です。
■ “根拠なき紹介”が生まれる構造
最近特に感じるのは、アセスメント(評価)のない紹介が圧倒的に多いということです。
「なんとなく視機能っぽい」「一度見てもらったら何か出るかも」——
そんな曖昧な根拠で紹介されるケースが少なくありません。
本来、支援は観察やアセスメントを通して構造的に組み立てるものです。
しかし現場では、“なんとなく”の延長線上でリファーされることが多いのが実情です。
これは支援者個人の問題ではなく、仕組みの未整備と文化の未熟さによるものだと感じます。
放課後等デイサービス(放デイ)は、ここ数年で雨後の筍のように増えました。
中には療法士や心理士が在籍し、アセスメント精度が高い施設もあります。
一方で、支援計画が“感想文レベル”に留まってしまう施設も少なくありません。
現場が分断され、観察や根拠が共有されないまま紹介が連鎖する。
その結果、「とりあえず視機能へ」という形だけの流れが出来上がってしまうのです。
■ 「思い通りにいかないパターンを、他にふる」文化
支援がうまくいかないとき、
「別の専門にふる」という判断自体は悪いことではありません。
しかし、問題は**“なぜふるのか”**という部分にあります。
本来、リファーは“つなぐ”ための行為です。
けれど実際には、“放棄”のように使われてしまうこともあります。
その背景には、支援者の中にある無意識の防衛反応が存在します。
自分の支援が間違っていたと思いたくない
手に負えないことを認めたくない
「できない子」ではなく、「わからない自分」を避けたい
結果として、“多職種連携”のはずが、“自己防衛リレー”になってしまうことがあります。
そしてここで、あえて一言添えたいことがあります。
あなたの熱意と善意が、子どもを苦しめていることがあります。
これは責めたいからではなく、構造を正直に見つめてほしいという願いです。
「何とかしてあげたい」という想いが、根拠や構造を見落としたまま動くと、
結果的に子どもをさらに混乱させてしまうことがあるのです。
■ 私自身の立ち位置から見えること
私は視機能の専門家として依頼を受けることも多いですが、そのたびに「どの層で迷子になっているのか」を一緒に探す時間が大切だと感じます。
“見る”という行為は、感覚と心の“交点”にあります。
だからこそ、「視機能で説明がつく」と言い切る前に、
“構造のどこで絡まっているのか”を丁寧にほどく作業が欠かせません。
それが本来の“つなぐ支援”だと感じます。
■ 構造を問わない支援は、呪いになる
「読み書き=視機能」と決めつけると、
支援は一気に単線的になります。
しかし、困りごとの本質はいつも構造的です。
環境、感覚、情動、記憶、信念。
どの層を見落としても、支援はズレます。
構造を問わずに「外在化」してしまうと、
「その子の中に原因がある」という物語が強化されます。
それは支援ではなく、“呪い”に近いものだと感じます。
■ 観察や根拠が共有されていないリファーを防ぐための視点
観察や根拠が共有されていないリファーを減らすためには、
単なる“情報共有”ではなく、“構造共有”が必要だと思います。
「わからない」を共有できるチーム文化をつくる
→ わからないことを恥としない。
構造的に見る習慣を持つ
→ 見え方だけでなく、感じ方・考え方の層を確認する。
“投げる”ではなく“つなぐ”リファーを意識する
→ どこでバトンを渡すか、その意図を共有する。
リファーとは「責任の移動」ではなく、構造の連続性を保つ行為です。
■ 結びの問い
支援が思い通りにいかないとき、あなたは“誰にふるか”ではなく、“何を見落としたか”を問い直せるでしょうか。




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